「明日、流星群が見られるらしいですよ」と教えてもらったものの、複雑な気持ちになるのが8月。フィンランドの南部に暮らしていれば、この時期はもう闇夜がやってくる。夜中になっても空が明るいわけではないのだ。朝晩の冷え込みも相当なもので、北のほうでは霜もおりれば、南だって10℃を切ってしまうほどだ。
とはいえ日中は半袖でいられるほど、庭は相変わらず芝刈りを必要とするし、21時閉店のスーパーにギリギリ入っても外はまだ明るい。テラスで寛ぐカフェの時間があり、さらにはまだ夏休み中の人たちもいる。なんといっても日本にいた年月のほうが長い私にとって、8月はまだまだ夏だと思いたい。フィンランドの夏を堪能するのは「白夜」だな、というわけで、闇が訪れ空に星が見えてしまうのは、私にとっては夏の終わりを告げられるようなものなのだ。星はまだ見たくない。
結局わたしは流星群でなく、夏の気分に浸るほうを選択し、闇夜の空を見上げないようにして夜を過ごした。
8月になるとヘルシンキの街に活気が戻る。森や海での夏休みを終えてリフレッシュした友達や仕事仲間が戻ってきて、久しぶりにお互いの近況を語り合ったり夏の思い出を共有する時間はなんとも楽しい。久しぶりに大勢でご飯を一緒に作ったり、誰かの職場に集まったり。休暇の前にキリキリしていた表情、疲れきっていた顔もすっかり元気になっている。
しっかり休んで新たな気分で面白いことを企画してみたり、夏には一人でせっせと採っていたベリーやきのこを誘い合って皆で行く予定をたててみたり。
夏から秋への移ろいゆく時期というのは、フィンランドでは格別だと思う。8月、これから私は電気と水道のない島で過ごすことになっている。高い波、星空、たぶん私は夏の終わりをひしひしと感じることになるだろう。ほんのり寂しさを抱きながら、それでも島を裸足で歩き、電気がなくても長いあいだ本が読める夏ならではの時間をしみじみと楽しむのだろう。
(文章・写真 森下圭子)
1月 人もびっくり、自然もびっくり
雪はなく、湖は鏡のように透明な氷が一面に...こうして迎えた新年。翌日から雪が降ったり気温が上がったり下がったりを繰り返し、着るものも日によって2、3枚増えたり減ったりする毎日だ。
去年、はじめてみた「毛嵐」という現象。気嵐とも書くこの現象は、急激に気温が下がったときに起きる。プラス気温だったところに、突然-15℃。海から、もわもわと蒸気のようなものが立ち上がり、靄とも霧とも違った幻想的な風景が海に広がる。こんな気温ではスマホは長く使えないどころか(動画を何回か撮影するとバッテリーが切れてしまう)、手袋を外して何かを撮影するのは至難の業なのだけれど、それでも毛嵐のときは海辺に人々が集い、嬉しそうに撮影している。
冬は寒くてこそ。雪があってこそ。そんなことを改めて思う。雪がふれば、小さな子供はベビーカーでなくソリで移動する。道路の雪が少なくても、道路にまいた砂がじゃりじゃりしていても、子供たちはソリに乗りたがる。公園の少し坂のあるところは、あっという間にソリ場になる。昼に他の人たちに見られると恥ずかしいからか、夜遅くにきゃっきゃとソリ滑りする若者や大人たちもいる。
1週間ぶりにヘルシンキに戻ってきたら、また雪がなくなっていた。せっかくの雪や氷がまた解けてしまっている。この冬何度目だろう。もう覚えていないほど、この冬はこれを繰り返している。森の木々に芽がでていたり、自然も大変そうだ。
周囲を見渡すと、風邪を引いている人の多いこと。自然も戸惑ったり驚いたりで木は芽を吹くほど。体がびっくりして風邪をひくのも当然といえば当然なのだろうか。急激な冷えにうっかり帽子を忘れたり、歩いているだけで汗ばむほどの厚着をしてしまったり、私じしん、この冬の忙しい気候の変動にはついていけてない。風邪をひきにくい体力はどうすればいいのだろう。ひとまず、今年は毎日一万歩を目指している。
急に冷え込み-15℃に。今年もまたヘルシンキの海で毛嵐が見られた。
どんな季節も気候でも、森は楽しい。焚き火でゆっくりひと休み。
凍ってきたヘルシンキの海に、ぽっかりと氷のない穴、そして二羽の白鳥が。
森下圭子さん
Keiko Morishita-Hiltunenさん
ムーミンが大好きで、ムーミンとその作家トーベ・ヤンソン研究のためにフィンランドへ渡り、そのまま住み続けている森下さん。今はムーミン研究家として、またフィンランドの芸術活動や、日本へフィンランドを伝える窓口として、幅広く活躍中。